2007年02月08日

霞んだ八ケ岳

霞んだ八ケ岳。まるで春に見る様な景色でした。
上手い具合に、八ケ岳の写真が撮れそうな所を見つけました。
下の写真の場所ではないのですが。
この場所よりかなり下の場所から見る八ヶ岳はなかなか良かった。

その場所で写真を撮らずに通り過ぎてしまいました。
かなり考え込んでいたのでしょう。
否、相当考え込んでいました。
決していい気分ではなかった。
私が、田舎の落とし穴に無理に突き落とされた気分だったあの頃の事が思い起こされたから?
あの事件の結果今日見るハメになった?

この日、町外れの静かな森に囲まれたセレモニーホールで、ある葬儀があった。
通常、この様な場所で行われる葬儀・告別式の場合、祭壇に向って左側に喪主を始め血縁関係にある身内が席に着く、左側には親族が座る。そして焼香のをする台の手前では、近隣の人たちが、式が滞りなく行われる様、立働く。
近隣の人たちが、多く立働くのは、喪主の悲しみを和らぎさせる作用もある。
この日の式には、喪主本人の辞退もある為、近隣の人たちは誰もいなかった。
実に寂しい式典であった。
「これでは村八分ではなく村九分ではないか?」との感想がよぎった。
喪主本人の辞退を招いたのには、それなりに理由がある。
事の発端に、私自身が大きくかかわり、私自身の病が事の経過に作用を及ぼしているのは間違いない。

それは1999年まだ冬の気配の残る公民館の一室での出来事だった。
地方の自治体の行政は行政として事務を進めるのには限界がある。都会の行政でやるべき事務・作業がどうしても一部住民負担になってしまう。
ここでは、定かな理由は省くが。


話し戻して、1999年の公民館の一室での出来事に戻ります。
その日、我々清里の中で下のほうに位置する東念場班の班長を決める会議があった。
出席者は私を含め7名か8名だったように記憶している。
この田舎での班長の役割は、都会で言う町内会長と似た者であるが、町内会長とは比べ物にならないくらい、大変な仕事である。
会議といえば、それなりの配慮があり、且民主的な雰囲気を想像されるであろうが、ここでの会議は、最初から全く違った様相を呈している。それは何時もの事で変わりない。

「俺が助けてやると言ってのに、お目―やれネーのか?」と一人だけが大声で怒鳴りあげてくる。
班長という役目は殆んどの人が避けて通る、役目である。
役目を果すのは、大変で、多くの場合自分の仕事に犠牲をきたし、それでいて、多くに人たちに「あれ程度しかやれないのか。やり方がおかしい」と陰口をたたかれるのを覚悟しなければならない。
その日の会議の出席者は私より年上の人が二人いた。二人は地元の人たちであった。
それを飛び越え、私が正に恫喝にあって「お前やれッ」である。
この班長という役目、田舎の小さな町役場に幼馴染もいるであろう人が引き受けるのが仕事はスムースに運べる。
残念ながら、私の様に他所の地域から、そして都会から来た者には、田舎の行政を動かすには限界がある。
この山梨の田舎には面白い言葉がある。
「来たれ者」
他所の場所から来た人たちのことを、冷ややかに見る、あるいは除け者にする蔑称と言っても差し支えないであろう。

私はその頃、厄介な病気に犯されていた。事を間違えば、死に繋がるケースもある嫌な病である。

私はその頃にも28日に一度の医大通いの最中にあった、会議の後日、医大の医師に明言されました。はっきりと釘を刺されたと言うのが適当でしょう。

「今度、地区の班長やれと言われてます。」
「あれは、山梨の古きよき習慣というか、悪しき習慣というか……、ただ私は普通の人でも、班長という役目を引き受けて、貴方と同じ病気になった人を何人も診てきました。医師として、はっきり言っておきますが、その病気の最中である貴方が、おやりになると、死ぬかもしれませんよ。いや死にます。ご自分の命とご近所付き合いと、どっちをお取になるのですか。どっちが大切なのですか。判りきったことでしょう。絶対にやめて下さい」

近所の医師にも相談しました。
「今の貴方の病名を出すと、この地域で、貴方は迫害されるでしょう。この病気をまともに理解してもらえる地域ではありません。誤解と偏見があります。貴方は別の病気を持っておられるから、その病名で診断書を書きましょう」
しかしながら、後日の会議(?)で、再び同様の恫喝にあうと言うか、診断書は、いとも簡単に握りつぶされてしまいました。

その時より、私の人生で最悪の時間が流れていきました。

(中略)

班長の役目を引き受けた翌年、清里の廃業ホテルが競売にかかり、事もあろうにオウム真理教が、廃業ホテルの落札をしてしまった。
大変な騒ぎでした。
オウム真理教阻止の大合唱。
会議の連続。
会議の中で出てきた糾弾は我々の住んでいる東念場地域に矛先が向けられた。
「オウム真理教が清里のを狙ってきたのは、東念場がけしからぬからだ。元オウム真理教のメンバーか、現信者か訳のわからないメンバーを住まわせたまま、何もしなかったのがいけないのだ。」
現実、オウム騒動起き上がるかなり前に、山梨県警の公安らしき警察官が、私のペンションのコテージの出窓から、あるアパートの出入り口を見張っていました。
後で判ったのですが、このアパートにオウム真理教の元信者住んでいたのです。

「中口班長、お前責任を取れ。あの信者(?)を追い出せ」

清里オウム真理教進出対策会議が発足した。
あらゆるマスコミが取り上げ、清里はおろか高根町を揺るがす大問題であった。
その一方、マスコミが殆んど無視した、清里東念場オウム対策委員会がほぼ同時に発足した。
清里オウム真理教進出対策委員会と清里東念場対策委員会の両会議は連日連夜のように開かれた。

「清里にオウム真理教が入ってくるのは確かに困る。しかし清里東念場のアパートに住む5~6人のメンバーは私の眼から見れば、オウム真理教の信徒から抜けている。」
私は、この元オウム真理教のメンバーに退去を求めるのに少なからず疑問を持っていた。
多分、私以外にも、このオウム真理教を脱退したであろうメンバーの退去を求める活動に疑問を持つ人は少しはいたのではないかと、今も思います。

ながい時間をかけ退去を求める活動の最中、上九一色村のオウム対策委員長の竹内精二氏が、見えました。
『メンバーの代表に、一対一で逢わせてくれ』と竹内氏から要請されました。
私は「いいでしょう」と言い、アパートの入り口で一人立っていました。
30分後でしょうか、小一時間でしょう。
アパートから出てこられた竹内委員長が開口一番に言われました。
「あの連中、完全にオウム真理教を抜けてるね。間違いないね。それを貴方達みたいに出て行けと追い回したらどうなるかね?」
「行くと事ないでしょう」と私。
「そうだよ。行く所ないよ。またオウム真理教に戻る事になるね。我々が、一人でも多くのオウムのメンバーを減らして行くようにしているのに。あんた達は又増やそうとしているのだよ。中口さん貴方の役目重要だよ!」

この時のアパートの大家さんが、この日の葬儀の喪主である。

この地区の住民でもある元オウム真理教のが住むアパートの大家である人との戦いは、長期戦になった。

結果、オウム真理教の元信者は自らの申し出で退去する事になった。

しかし後には、この地区の住民でもある大家さんは、他の住民との関係を絶つことになる、後味の悪い結果だけが残った。
今私には、当時いきり立つ多くの住民に一言でも「オウム真理教を完全に脱退した彼らに、二度とオウム真理教に戻らないよう、保護・オルグする選択肢もあるのでは」と、一度でとも発言するべきだったのではないのか?という自責の念が心の片隅にある。
しかし、あの頃の私の体調では、丸っきり不可能な話であったと、自身ごまかしている。
『保護』との言葉を出せば、「委員長がだらしないから、ことが進まないと、いい加減にしろ」との罵声を浴びたであろう。

このホームページのオーディオのコーナーにJR尼崎事故のことに書いています。
都会には都会の落とし穴があり、田舎には田舎の落とし穴があると書きました。

私が、この班長お役目を2年間終えた後、今度は事情のわからないペンション経営者の不用意な発言で又二年間、公民館の主事の任務を押しつけられた。
都会から来た私たちの常識、知性はこの田舎では一部の人たちから、ことごとく否定される。
はっきり言って「大人社会のいじめ」に終始される毎日。
ほんの一部の人たちからの罵詈雑言は、何処の社会でも同じかもしれないが、他の善良な人の善意もかき消してしまう。

私が病を得てなかったら、『異端児』と罵られたとしても、ある程度、自身の信念を貫けたであろう。
自身、私の病気が恨めしかった。
病状は日毎に悪化した。

話は少しずれますが、この様な時はペンションの様な客商売は実行不可能である。インターネットである書き込みがある。
「ダブルブッキングをしても平然としているオーナーの態度は何のでしょうか?お客が来るから天狗になっているようで」
とあるが、私はその頃の状態をから察するに、自身の顔が無表情であって、どうしようもなかった時代だと、又顔面蒼白だったと思います。誤解を受けてもし方がない状態であった。
ひとり言とか〇ちゃんねるの書き込みが、99.99%無記名である。
私は自分に非があれば謝罪もします。自分に非があれば丁重に詫びます。そして、あの時代のことには釈明もさせて欲しい。
しかし、YahooにしろGoogleにしても無記名の物を載せるのは如何な物かもと思う。
謝罪も釈明もしようがない。その機会も与えない、無記名の書き込み又メール等には返事のしようがないときがある。
あの時代の私の不首尾はどうしようもなかった。

Yahoo・Googleはもっと見識を持つべきだ。

話も戻って。
田舎の落とし穴に嵌った私は自身、廃人に近い状態だった。
当然、ペンションの経営は急激にどうしようもない状態に陥った。
どうにか、妻と末っ子がペンションをそして私を支えてくれた。
私は死なずにすんだ。

04年の2月27日私は三人目の医師の診断を受ける事になた。
「こんなに沢山の薬を飲んでいては?……?」と三人目の医師は今まで飲んでいた薬を半分以下にしてくれた。

その年の夏の始まりに私は急激に回復基調になった。
その年の晩秋は暖かかった。
妻と二人での、ペンションの庭中の片づけが始まった。
翌年の初頭、経営ベースから見て、わたしのペンションの落ち込みように愕然とした。

総ての建物を壊し、更地にして、ペンションの廃業を考えた。

それなりの人に相談をしたが、「音に聴こえた、『ペンションスケッチブック』を見せて欲しい」となった。

その人は「これだけのペンションを総て『0』にしてしまうのは、あまりにもモッタイナイ」

そして、春から方針を180度転換、ペンション再興の道を開ける事になった。

一方、かの元オウム真理教とを住まわせていた大家(清里の住民)さんは、自ら(?)村八分の道を選んだまんま。

この日の葬式を見ると、彼(元オウム真理教徒を住まわせていた大家さん)の申し出ではあるが、近隣の人が誰一人手伝う事のない告別式は、正に村九分である。

『村八分』この語源を知っている者には、目を覆いたくなる状況である。

一方、私は自身『死』を選ぶことなく復活を果している。

この落差は何なのだろう。

この日の写真の八ケ岳を見る前に見た、八ヶ岳のビューポイント。

「いい所見つけた」と素直に喜べない。
寂しい葬儀の後。

余談かな?私が長い病のトンネルを抜け出るキッカケになった04年2月27日。
三人目の医師に初めて診断を仰いだ日。2月27日は私の誕生日。

かのオウム真理教の教祖松本智津夫の死刑判決の日は04年2月27日

この一連の追記発言は問題になるかも知れない。
それを承知で書きます。
自身の発言に責任を持つべく、当然出所をはっきりさせます。

                  清里 ペンションスケッチブック 中口勝功
                  sirius@comlink.ne.jp

追伸 ご批判あらば返信します。口頭のもは、その場その場で時間がとれないことを考慮し受けません。真摯な態度で忠告いただくなら、こちらも後日時間をかけ文章で返信いたします。
かなり、私の記述・文章が飛んでいて、誤解を招く事を危惧し追記を終わらせて頂きます。
何度か推敲を重ねる事となるでしょう。何度か読み直し、誤字脱字言い回しのおかしい点は訂正します補筆もさせて頂きます。


追記の追記

私が、この追記を載せた日の夜、それも深夜近く。
車による事故を起こした。
原因は、一笑に付されるであろう自身の二つのミス
結果、私は運転席のドアーとセンターピラーに腰から下と腹部を挟まれ、ドアーの外には車庫の出入り口があった。
車庫には100/10の勾配があった。
私の初歩的な2つのミスで、2トン近くある車体はアッという間に滑り出し、車重を私の腹部で受け止めることとになった。
私は「これが自分の最後なんだと」と叫んだ。
慌てる妻に助手席のドアーを開けサイドブレーキーを思い切り引き上げるよう頼んだ。
妻は119番に連絡。
何とか一人で車をバックさせる為ボンネットから押すが妻の力ではビクともしない。
その後直ぐ、近くの同年輩のご夫婦の声が聞こえた。
ご主人の「何をしたんだッ」と叫ぶ声が聞こえた。
その時初めて「死なずにすむかも知れない」と思わせる一筋の光が射した。
あの人なら、助け出してくれるかもしれない。
直ぐに隣家の年配の方とその家のお嫁さんを呼び五人がかり車を押すがビクとも動かない。
ただ、私は挟まれている腹部をほんの僅か上に動かす事ができた。
「五センチでいいから、車を押してもらえたら、脱出できると思います」と言った。
(自身の意識は薄れてないし、何とかなるかも)
私と同年輩のご夫婦は四輪駆動の車に乗っておられた。
救急車はまだ到着しない。
ご主人はご自分の四輪駆動車で私を挟んでいる車を押した。
タイヤがこすれて、もの凄い煙が立ち上がっていた。
結果、ようやく、私を挟んでいる車はバックした。
僅かに車が動き私は脱出。
この間、多分20分近く出会ったと思われる。

後で実況検分の警察かの方から聞かされたこの僅かの距離と思われたのは40cmだと聞かされた。

どうにか脱出できた私は両脇から抱えながらではあるが、自身の足は自分の意思で動いているのを感じ半身不随は免れた様子と思った。
その後到着した救急車で県立中央病院の集中治療室に搬送された。
搬送中、腹部内部にどの程度損傷を受けているか?思考をめぐらしていた。

以後省略

この地域では白い救急車より先に駆けつけ緊急の場を乗り切るのは近隣の住民である。
赤い消防自動車が到着するより、消化ホースを延ばすのは、近隣の自衛消防団である。

これは決して行政の怠慢でもなんでもない。それ(近隣の住民の初期活動)が一番最初にありきである。

どうやら阪神大震災でも住民の同志の助け合いがかなりのウエイトを締めていた様子と聴いている。
あれ程の大災害は別として、都会の大方の緊急現場では消防なり警察なり行政がが専門的に動き回り活躍するであろう。住民は遠巻き見るが無難(?)。

この山間の地域では、初期初動は住民同士の助け合いである。

胸襟を開き、接する態度があれば、少しの意見・意志の、又価値観の違いがあっても、近隣の助け合いの輪に入れる。
それが苦手(?)な人はここでは仙人に解脱するしかないであろう。

今になって思える事は2000年のオウム真理教の清里進出のきっかけとなったと非難された、オウム真理教の元信者の居住は、人間全部性善説で元オウム真理教徒の社会復帰への手助けの選択肢は極めて少なかった。騒動の始まりから終結へのプロセスでの詳細を考慮すればかなり厳しかった。

社会復帰の選択肢以外に私は彼(大家さん)に、「この地区の住民同志の互助精神の基盤を考えると、長い闘争は、住民同志の軋轢という後味の悪い結果を産むか。元教徒の社会復帰の手助け貫けるかどうか、冷静に考える必要があるのでは」とも言うべきであった立場に私は置かれたいたのだろうと思うが………。

この意志をこの先彼に話す機会があればと、それを持てる様な人に私はなりたい。

村九分も村一分もない社会が理想の社会かな?

難しいですね?残念ながら。

只今私の体は、奇跡的にも左太ももの圧迫痕の腫れと、肋骨骨折だけで助かってパソコンの前にどうにか座れています。
数センチの奇跡の積み重なりと、度量で表せない近隣の大きな助けで、生かされた自分は何をすべきか
真剣に考えています。

県立中央病院救急救命集中治療室の方々、救急消防員、警察署その他大勢の方に感謝の意を述べ記述を終わらせて頂きます。

その後、ふとしたきっかけから、かの大家さんと私との間では以前どおり普通に挨拶するようになれたのは、時の流れ以上に不思議なものを感じている。